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毎日家族と復旧作業
昨晩無事、気仙沼から上海に戻りました。
実際に津波に襲われた故郷をみて、家族や友人から体験談をきいて、
色々な感情が沸いた10日間だったけれど、
まず、一番言いたいことは、
自衛隊、そしてボランティアの皆さん、本当にありがとうございます。
これです。
瓦礫の山の撤去作業や避難所の炊き出し等
そして全国から寄せられる、数々の支援物資。
なんと、有り難い。
この場をお借りして、心よりお礼申し上げます。
その気持ちになんとしても応えなければ。。
本当にそう思い、私もこの丸一週間、せめて私ができる事、毎日家の復旧作業に集中しました。
一人ひとり、元の生活に戻るように進むこと。それがまず私達にできる、第一の恩返し!!
村上家は、1階全て波につかり、津波のラインもしっかり刻まれていました↓が、


泥だらけになった家も大分きれいになりました。
家族で力を合わせて、毎日復旧作業。
終わったら皆で川の字で寝る。
なんだか、子供の頃に戻ったような気もちでした。
決して津波に「有難う」なんて決して言わないけれど、現代人として生活しているうちに大切な何かを忘れかけていて
今回のことで、そんな何かを思い出したのも事実。
被災地の多くの人から、そんなパワーを感じたから、復興するのもきっと早いんだ!
そう信じて、今、私ができる事を精一杯やっていこうと思います。
避難所生活の家族との再会
この現実の中で、被災者の皆さんは、家族は、どういう気持ちで毎日を過ごしているのか。
そしてそのまま避難所へ行き、無事に家族とも再会しました。
母の第一声「あら、いつきたの」
父の第一声「お、味噌汁のむか」
あら?
こっちは毎日はらはら、どきどき、被災地で暮らす家族のメンタル面は・・・
といろいろな心配をしていた分、若干拍子抜けしました。
間接的な情報に振り回され、余計な心配をしていたのかしら??
父も母も、兄も姉も弟も、家族みな、元気。
「家の一階全部泥でひどかったけど、みなで泥取りして、大分きれいになったよ。ユミ、明日壁の泥取りしてけらい」と、母。
家族、そして気仙沼の人々、ちゃんと現実を受け入れ、町の復旧、復興のため生活していました。
これだ。
これが、我ら三陸の人々。
よし!やりましょう!
壁の泥取りでもなんんでも!
そしてそのまま避難所へ行き、無事に家族とも再会しました。
母の第一声「あら、いつきたの」
父の第一声「お、味噌汁のむか」
あら?
こっちは毎日はらはら、どきどき、被災地で暮らす家族のメンタル面は・・・
といろいろな心配をしていた分、若干拍子抜けしました。
間接的な情報に振り回され、余計な心配をしていたのかしら??
父も母も、兄も姉も弟も、家族みな、元気。
「家の一階全部泥でひどかったけど、みなで泥取りして、大分きれいになったよ。ユミ、明日壁の泥取りしてけらい」と、母。
家族、そして気仙沼の人々、ちゃんと現実を受け入れ、町の復旧、復興のため生活していました。
これだ。
これが、我ら三陸の人々。
よし!やりましょう!
壁の泥取りでもなんんでも!
ヘドロのにおい
上海から飛行機で成田に入り、新宿から高速バスで仙台へ。
一日目は仙台の姉の元に一泊し、翌朝気仙沼に帰ってきました。
そこに向かう途中の景色。
気仙沼に近づくにつれ、何やら窓から見える景色が、おかしい。。
さまざまな目印が、ない。
今まで建物に隠され簡単に見えなかった三陸の海が、すぐそこに見える。
建物が、ない。そしてないはずの場所に建物が、ある。
そして、がれきの道路へ。
唖然。ただ、唖然。
今までテレビ、新聞の画像で見ていた気仙沼の光景。
ひどかった。
私の中の、想像の範囲を、超えていました。
360度。がれきって、想像できるもんか。
ここは、どこ?私の知らない、別の町、もしくは外国?
なんというか、見たことないけど、戦後の焼け野原って、こうだったのだろう。
もう、ただ、唖然としました。
そして一番全身が震えるほど驚いたのは、町のにおい。
町全体が、海の中のヘドロのにおいで覆われていました。
これが、津波。
ひどい、津波。
きれいな街だったのに。
ただ、ただ、悔しい。